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2017年9月19日 (火)

山陰ドタバタ旅行記(その9)

【三日目(米子~鳥取。そして帰宅の途へ。)】
 松江から乗車した132D普通列車が米子へ12時5分に到着すると、すぐさま12時17分米子始発のスーパーまつかぜ8号へと乗り換え。
 窓から外を眺めると、山陰本線では最大最重要の拠点駅であるため、多くの電車や気動車やディーゼル及び電気機関車が多くいました。
 そのうち、一番目立っていたのが、境線を走る「鬼太郎列車」です。

Photo 漫画家の故水木しげる氏作品の「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが描かれた、「鬼太郎列車」はとにかく目立ちます。
 
 列車が米子駅を出発すると、その当初は美しい緑に映えた伯耆富士の大山や終着近くには湖山池の美しい姿を眺める事が出来ましたが、旅の疲れで眠りの途に就いてしまいました。
 わずか1時間10分程度の旅路で、13時26分に鳥取駅へと到着。ここで、山陰路の鉄道の旅は終了しました。

 鳥取駅を降りてから、鳥取名物の「すなばコーヒー」で昼食を摂る事にしました。
 これは、鳥取県にスターバックスコーヒーが無かった頃、当時の鳥取県・平井伸治知事の「鳥取にはスタバはないけど、日本一のスナバがある」との発言がもとで、地元資本の手によってこの「すなばコーヒー」が、鳥取県内のみのローカルチェーンとして生まれたのです。
 私達が昼の店前に、いの一番で並んでからすぐには、後ろから次々と人波が並んでいた程の賑わい振りでした。
 入口の目の前の全国地図には、利用客からのメッセージのメモフリップが多く掲示されていて、「東京から来た。」や「シアトルに進出して下さい」等との応援メッセージが多く飾られていたのには、驚きでした。
 それだけ、鳥取県限定のローカルチェーンでしかないのにも拘らず、高い人気と注目があると言う事なのでしょうね。
 私は「鳥取にしかない名産グルメをどうしても味わいたい!」との強い思いがあって、もさエビカレー(山陰原産で鮮度落ちが早く、現地でしか味わえない希少なえびをフライやメンチカツとして使ったカレーです。)と砂焼きコーヒー(鳥取砂丘の砂を使った、独自の技術で焙煎されたコーヒーです。)を頂きました。
 特に、この砂焼きコーヒーは、全般的には薄くて苦みのやや目立つものでした。珍しさの余りのせいか、印象が非常に強かったのです。
 店の内外も食事の写真も無くて、ごめんなさい

 食事も駅近隣のコンビニなどへの帰宅時の食料調達を終えてから、友人の車へ乗車。鳥取駅前の駐車場を出発。
 出発時刻が昼の3時近くだったので、最初に行きたかった鳥取砂丘へも行けませんでした。敦賀までのルートは行った時のそれとはほぼ同じでした。しかし、急いでいたため北近畿豊岡道と舞鶴若狭道との併用でした。
 生まれて初めて通る所ばかりだったで、殆ど眠れず、そのお陰か山里の緑とのどかな集落の風景、そして高台から見える若狭湾の風景を眺める事が出来ました。

 敦賀へと到着し、友人夫婦と近くの食堂で食事を摂り、眠気防止の栄養剤を購入して飲んでから、自宅へと帰りました。
 敦賀~金津インター辺りまでは国道で、そこからは北陸道となりました。
 敦賀~武生間は、カーブとアップダウンが激し過ぎたため、殆ど眠れず緊張の連続に・・・。
 夜の10時頃に、自宅へと到着。
 
 ちょうど姉が来ていたので、それと同時に石見銀山名物の「げたのは」と「銀山あめ」、途中の道の駅で買った二十世紀ナシを渡し、とても喜んでいました。

 限られた時間の範囲内での長距離旅行だっただけに、知恵と工夫をも要して多少ドタバタとしてしまいました。
 しかし、その分友人とのコミュニケーションやお互いの有難み、色々な知識を得ながらの様々な体験を味わう事が出来た、大義ある有意義な楽しい旅行でした。
 

山陰ドタバタ旅行記(その8)

【三日目(松江編)】

 いよいよ、私たち友人と一緒に出掛けた二泊三日(うち、車内で一泊)旅行も大詰めを迎えました・・・。
 朝起きるとすぐに「今日の予定はどうする?。」との話が出て、山陰満喫パスを改めて見てみたら、「周遊エリア内にある20社寺を巡った時に、ガイドブック引換券を交換すると、『公式ガイドブック』がもらえる。」との話が出たので、JR線との乗り継ぎが容易な松江市内の寺社を見学しようと決めました。
  しかし、当初の目的の社寺であった月照寺へは参拝出来ませんでしたが・・・・。鉄道の乗り継ぎや翌日の仕事開始時間の事を考えてしまうと、仕方なかったが・・・・。

2017

2017_2 とにかく、この周遊きっぷは、山陰地方(特にJR西日本米子支社管轄区域内)での列車が二日間乗り放題で、勿論特急列車も自由に乗り降りできます。
 また、出雲國神仏霊場の公式ガイドブックとの引換券もありますので、史跡散策や歴史散策にも便利ですよ。

 朝食は、無料サービスによる朝食バイキング。
 定番のメニューに加えて、宍道湖産のしじみの味噌汁もありました。非常にお得で、一日の栄養補給には最適。
 
 朝食を終了するとすぐに、早く松江市内観光をしようと一目散で出雲市駅へと直行。そして、8時31分出雲市始発のやくも10号へと乗車。
 この時、生まれて初めての振り子型高速特急車両への乗車経験です。普通の特急車両と比べて、多少滑らかで軽く浮いた感じはしたものの、座席に座って見ると今までの特急車両と何も変わっていませんでした。
 8時56分に松江駅に到着。
 最初の目的地にしていた、八重垣神社へ行こうとバスの時刻表を見ましたが、駅前バスターミナルをフラフラしていると、松江市交通局ぐるっと松江レイクラインがあると言う事に気が付きました。

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 最終的には、一日大人500円の乗降自由の一日乗車券があって、しかも松江市内の各指定観光施設へは団体割引料金で入場も出来るから、それにしたのです。

 早速このバスへと乗車。レトロムードたっぷりの中型バスで、車内は各名所や松江市内の歴史や地理に関する観光案内放送がしっかりとなされ、わざわざ定期観光バスへ乗らなくても十分過ぎる程のサービスを満喫する事が出来ました。
 松江中心市街地の規模が小さかったお陰なのかも知れませんね。
 先ずは、松江城(国宝に指定)の散策しました。
 規模は今まで見て来た、名古屋城や大阪城、松本城、我が金沢城と比べて規模はやや小ぶりではありましたが、それだったが故の美しさと逞しさ、優しさには魅力を感じました。
          Dsc_0022_1505013016591          松江城が国宝に指定されたのが平成27年。つい最近ですね。

Dsc_0020_1505013024751          松江藩の初代藩主である堀尾吉晴公の銅像。
    Dsc_0023_1505013015016   松江城址を案内図を見ていると、大きなお濠に水が満々と湛えているんですよね。

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Dsc_0046_1505013025303 松江城址のお堀(堀川)は、規模も大きくて様々な遊覧船や渡し船が次々と行き交っています。見ているだけで、気持ちよくなります。

 松江城からすぐに出ると、すぐ傍の松江ホーランエンヤ伝承館へと見学し、この5月に行われるお祭りが日本三大船神事の一つ」であると言う事や、出す船の装飾が街によって様々で、しかも装飾が美しい事、地域住民がホーランエンヤを生甲斐としていると言う事等を知って学ぶ事が出来ました。一度は見たくなった程です。
 

 その後、小泉八雲旧居へ行きました。
 そちらでは、小さな元武家の可愛らしい中庭の緑を見ながら、自分自身が小泉八雲になった気分で明治ロマンの香りに耽ると言う体験もしました。

 こうして松江市内の観光に集中しているうちに、私達が山陰満喫パス利用者を対象とした、出雲國神仏霊場公式ガイドブックとの引き換えを目的で月照寺へ行く予定としていましたが、「どうしても、米子で12時17分始発のスーパーまつかぜ8号に乗らなきゃあかん。それに間に合う様、松江駅へ即刻帰らんと・・・。」との思いがあって、そちらへ行く事を取りやめました。
 それでも、松江レイクラインのバスの乗車での市内周遊は最高で、「山陰の水の都・松江」のロマンを十分に満喫する事が出来ました。

 米子でスーパーまつかぜ号への乗り継ぎに間に合える様、大急ぎでそちらへと向かいました。
 しかし、それに接続するための特急も快速も無い・・・。
 結局は、ディーゼルカーによる米子行きの普通列車(松江を11時29分発の132D)へと乗車。
 それでも、旧国鉄の首都圏色を纏っていたキハ47系なので、貫禄は十分。
 その上、特急列車では決して味わう事が出来ない、人情の温もりと緩やかな旅情が味わえたので、却ってそっちの方が良かったかも・・・。

 友人との山陰旅行は、終盤へと向かいます。続きは(その9)へ・・・。


 
 

2017年9月17日 (日)

山陰ドタバタ旅行記(その7)

【二日目(三江線編[その⑤])】
 口羽駅を出発すると、三江線の大いなる大自然と田舎の旅行は終盤へと向かいました。気が付けば辺りは真っ暗。
 大空の主役は、太陽から月や星へと変わった・・・。
 今度は夜汽車のムードが漂って、寝台夜行列車でもないローカル線の夜汽車のロマンティックな風景を味わう事になりました。
Dsc_0001_1505013005621      そうこうしているうちに、小さな2両編成の気動車は島根県から広島県へ。

Dsc_0002_1505013027936   悠久の三江線鉄道旅が間もなく終了しようとしてます。「次は終点、三次です。」
 
 三江線沿線で唯一の盆地で、広島県北部地区(以下、芸北地区)の中枢都市である三次市へと入り、18時59分に終着駅の三次駅へと到着しました。
 駅構内は三江線と芸備線、福塩線とが交差するターミナル駅なのだが、気動車による普通列車や快速列車ばかりです。
 かつては、中国山地山沿いの東西縦断や陽陰連絡鉄道の大拠点駅として、三次駅は活気に満ち溢れていたのです。昔は様々な急行列車が走っていました。
 しかし、高速道路やマイカー、都市間高速バスの発展と普及、沿線地域の人口減少などで廃止。今では広島~三次間を除き、山間の静かなローカル線の拠点駅となってしまいました。
 それでも、芸北地区の中心都市の駅であるだけに、鉄道駅としての貫禄は十分です。

Dsc_0007_1505013003652 江津を始発してから3時間44分の「『三江線鉄道旅』と言う、悠久のドラマ」は、ここで以てして終了。
  Dsc_0004_1505013006337 三江線に携わって下さる関係各位の方々への深い感謝と御礼を申し上げたい気持ちで一杯です。
 三江線の廃止まであと半年。僅かに残された期間中ではありますが、地域住民の日常生活や観光客等達の足として、その様な方々から愛される様に精魂込めて頑張って下さい。
 本当にありがとうございました

Dsc_0008_1505013027537 三江線と福塩線、芸備線のうちの三次以東の列車の本数は少なく、閑散としています。
 しかし、広島方面になって来ると、最低でも30分~1時間に一本と言う本数。県内の主要都市間路線の様相となります。

Dsc_0009_1505013016437             三江線で使用されている同系の福塩線仕様の車両。

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 クールで可愛らしいキハ120とは対照に、こちらは重厚で貫禄のあるキハ47系。情熱があって力強い首都圏色です。また、昭和末期~平成初期の若き頃を思い出します。

Dsc_0013_1505013022844          Dsc_0011_1505013005983         近代的でコンパクトな三次の駅舎。非常にすっきりとしています。
 
 以上の写真にはありませんが、広島方面行きの備北交通のバスが駐車していたので、高速バスは長距離高速移動手段に、鉄道は周辺地域同士を繋ぐための日常生活の移動手段として現在では、使い分けされているのですよね・・・。
 三江線への乗車を通して、衰退する鉄道や過疎化、地球環境問題、これからの公共交通機関の在り方の事をも深く考えた余り、以下の様な事を思ったのです。
 「現在では車社会。しかし、将来は電気自動車や完全自動運転へとなり、人口減少や販売購入価格の高騰、更にはカーシェアリングの普及等に伴うマイカーの保有率が低下するのは必至。だから、以上の様な車社会の先行きも見据えた上で、鉄道やバス等の公共交通機関との共存や発展も考えて行かねばならないといけないなあ。」と・・・。

 三次駅を降りてからは、ホテルα-1三次の一階にある「居酒屋御食事処すぎの」での夕食となりました。そちらでは、それぞれが注文をした定食と広島の地酒、共通で注文したワニ料理のうちの「ワニの刺身」と「ワニの皮」とを注文して郷土料理を存分に味わい、旅の疲れをいやしました。
 「ワニ料理」と聞くと、多くの人達は「爬虫類の一種である、鰐の料理」であると、ふと思ってしまいます。
 それを食した時の感覚は、肉質が柔らかい割にはしっかりとしていて、滑らかでした。
 しかし、備北地区においての「ワニ料理」とは、山陰沖で捕れた鮫を加工したものなのです。内陸のこの地域にとっては貴重な魚料理でもあります。
 料理の内容や食事処の詳細の件については、色々なホームページで調べてみた方が良いかと思います。

 食事を終えた後は、駅前のドラッグストアで飲み物や食料の買い出しを行い、三次駅からはタクシーで、三次インター高速バス停へと向かいました。

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Dsc_0019_1505013015675 三次地域の長距離交通機関の中継地点として、鉄道の駅よりも高速バスの停留所の方が今では主役です。

 車の通行量は、平坦で運転しやすい山陽自動車道が開通したため、非常に閑散としていました。我々が、三次から出雲市駅前へと乗車した高速バス「みこと号」に乗車した時の車窓もそうでした。
 20時半頃に、出雲市行きのJR高速バスがバス停に到着。乗車した時は、非常に閑散としていました。
 この様な夜闇の中国道と松江道を快走し、22時頃の駅構内とホテルの玄関や窓明かりだけが目立ち、閑散としていた出雲市駅前に到着。
 私達は、駅前のホテルへと入り、二日目の旅路の行程はここで終了。
 
 続きは(その8)へ。

【二日目(三江線編[追伸])】
 三江線は108.3㌔の全長で以てして、島根県の江津市と広島県三次市とを結び、陰陽連絡路線の鉄道部門の一角を成しています。
 この構想は古くからありました。鉄道も無く、江の川の水運が中心で自動車道路も整備されていなかった当時としては、貴重な高速大量輸送の公共交通機関として、地域社会から待ち望まれておりました。
 最初に、三江北線(当時は「三江線」)が昭和12年に石見江津(現・江津)~浜原間が開通。戦中戦後の混乱によって建設が中断されてしまったものの、昭和30年には三次~式敷間が開通。昭和38年には口羽まで延伸。
 これにより、昭和30年から昭和50年の全通までの期間は、江津側が「三江北線」、三次側が「三江南線」でした。
 昭和50年8月には、浜原~口羽間が開通。それ以降からは、「三江線」と言う名称となりました。
 昭和前期から中期にかけては、日本各地では鉄道建設の計画や構想、建設が相次いでおりました。この頃は、鉄道の建設工事や車両、高速及び過密化に伴う運転等の技術の進歩が著しかったです。しかし、それと同時に自動車道路の整備と自動車車両や道路建設の技術向上、地方の過疎化の波が進んでおりました。
 この三江線が本格的な建設が為されていた頃には、上記の様な影響を既に受けておりました。同時に、広島県と山陰地方とを結ぶ鉄道路線の計画や建設が、三江線以外にも今福線(広島~浜田間とを結ぶ路線。現在の可部線がその一部に含まれている。)と岩日線(現在の錦川鉄道錦川清流線。岩国と島根県の日原とを結ぶ路線です。)でも行われていたのです。
 皮肉にも、建設が始められたのが最も古く、全通の見込みが最も早い事や、当時の鉄道建設や管理、車両技術が未熟な上、走行する路線が江の川流域と言う勾配の少ない地形のために、この三江線が最優先となったのです。
 結果、今福線と岩日線の建設が国鉄末期には、中止へと追い込まれました。

 もし、建設されて全通していたのが今福線であれば、可部駅以北の区間が長大トンネルと勾配の連続ではあるものの、中国地方の広島市と島根県西部の浜田市とを直接結べる事から、そちらには広島~山陰方面(浜田・益田方面、同線経由の江津・出雲市・米子・鳥取方面)への急行や特急(以下、優等列車と表記)、快速が走っていたのは必至です。
 陰陽連絡の主軸として、山陽新幹線との接続路線として・・・。その上、可部までの広島市周辺は、近郊路線として人口が多くて需要が高く、更なる同線の整備が強化されていたのには、間違い無かったでしょう。

 それが、岩日線の場合だったとすれば、新岩国で山陽新幹線と接続。錦川に沿って山口線の日原を経て、益田までとは結ばれていた筈です。広島~益田間の優等列車が運行していたのは間違いなかったのでしょう。
 何れにしろ、三江線の建設中止や南北に分かれていた鉄路の廃止は免れていません。いや、場合によっては、木次線も廃止の対象となってしまったのかも・・・。
 しかも、当時から大赤字で廃止の対象となっていたので・・・。

 三江線関係の話へと戻る事とします。
 三江線が全通した昭和50年代になると、沿線地域はモータリゼーションと過疎化が進行し、当時の国鉄(今のJRバス中国)や広島電鉄、石見交通、一畑電気鉄道と言った路線バス会社が、道路の整備とバス車両の性能向上に伴って長距離バス路線を相次いで開業させていました。しかも、三江線が江の川に沿う形で大きく迂回していたので、大量高速移動手段としての機能と需要を失ってしまったのです。
 中国自動車道や浜田自動車道が全通すると、この様な状況に拍車が掛かり、高速路線バスが広島からの陰陽連絡の主役となってしまいました。
 このため、広島から三次、庄原、木次線を経由の松江米子方面の急行が廃止され、中国山地の麓をひた走る鉄道路線も著しく衰退して行きました。
 この様な状況を打開しようと、JRや沿線の地域自治体などは様々な工夫で以てして、この路線の活性化を図りはしましたが、更なる人口減少や島根県の石見地方で続いている「広島へのストロー現象」と言う厳しい荒波には勝てず、赤字だけが激増。
 この様なために、2018年4月1日を以てして、三江線が全線廃止へと至りました。

2017年9月16日 (土)

山陰ドタバタ旅行記(その6)

【二日目(三江線編[その④])】

 三次方面へ行く小さい2両編成の気動車は、もう一つのホットスポットである口羽駅へ到着。
 そちらでは、上り列車浜原行きとの交差待ち合わせで、約15分もの長時間停車となりました。
 そのためか、撮影や散策のため、殆どの乗客達が途中下車と言う形で取りました。この様相は、観光バスや高速バスがサービスエリアやパーキングエリアでのトイレ休憩とそっくりそのままですね。
 また、駅前では三江線関連のものを中心にとした、書籍やポストカードの販売をも行っておりました。
 口羽駅は、昭和50年の三江線全線開業まで当時の「三江南線」の終着駅でした。一方で「三江北線」の方は、浜原駅です。Photo

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Dsc_0039_1504949591326 日本が、昭和中期の高度成長期で元気だったことを思い起こさせます。単にレトロチックで哀愁を漂させるだけではありません。
 口羽駅の駅舎と内装、駅前に聳え立つバス停標識がこの様な心を引き立たせてくれます。
 しかし、駅舎直前の観光案内表示地図版は、近代的でした。恐らく、三江線廃止後の地域観光拠点になるかも知れないと言う事を見据えての設置でしょうね。
 買えなくて残念でしたが、ポストカードに表示されている三江線沿線風景の写真はとにかく美しい。何が何でも欲しくなって来た! 

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Dsc_0023_1504949597678         様々な種類の案内表示板は、味がありますね・・・・。

Dsc_0041_1504949605055_3 沿線地域住民が抱く、三江線の更なる活性化に対する思いと利用促進の呼び掛けは、廃止される日まで続きます。
 このスローガンを見ていると、もう一度三江線に乗りたくなって来ました。
 Dsc_0045_1504949577222         民家と小さな工場が寄り添って建つ、口羽駅周辺ののどかな風景。

Photo_4 日没の時まで一刻一刻と近付いているのにも関係無く、多くの人達で賑わっている、口羽駅のホーム。土曜日で、三江線廃止が近付いているためなのか・・・。

Photo_3     上り浜原行き列車との交換風景。三次行きの下り列車は、間もなく出発


 15分もの長時間停車を終えた後、18時1分に三次行き列車は出発。終着駅へと緩やかに動きました。
 それと共に空は暮れ行き、夕日と暗闇、車内灯が主役に。
 三江線の悠然とした美しい景色を、青空の共に拝み楽しむ事が出来なくなりましたが・・・。

 続きは、その7へと続く・・・。

2017年9月15日 (金)

山陰ドタバタ旅行記(その5)

【二日目(三江線編[その③])】
 小さな2両編成の三次行きのディーゼルカーが南下して行くに連れて、クライマックスを迎えて行く。

 そんな中、最大のクライマックスである宇都井駅に近づくと、多くの鉄道ファンの人達は、我も先にとの思いで、窓や扉、運転台へと足を運んで行きました。更にこの中には「ここで降りてから写真でも撮ったり、周辺を散歩したりしよう。」と思っている人もいた事でしょう。
 実は、私もそんな一人でした。もし、今回の旅行が完全に私一人だけだったら、間違い無しにやっていた程です。いや、宇都井駅どころか、そこ以外の他の駅で降りて列車が走行する姿の写真の撮影や録画、沿線集落の散策や街食堂でその土地の食に舌鼓を打っていたのかもしれません。そうなってしまえば、石見銀山や後述の松江市内観光散策が出来なかったのは間違いない・・・。

 これだけ、撮影場所としても見学場所としても、この駅にはそんな高い魅力がある事ですね。
 
 三次行きの列車が宇都井駅に到着すると、多くの鉄道ファン達いや、その他の乗客達もきっと大興奮したと、私にはそう感じています。そんな思いで、私は駅からの景色と、駅の表札、運転台からの景色を撮影したり、録画もしたりしました。
 ここでの停車時間は余りにも短く、何をするにしても大慌てでした。

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Dsc_0012_1504949583268 宇都井駅から見下ろす車窓は、天下一品。まさに「天空の駅」にふさわしい。鉄柵側からの景色は、この様な印象を更に大きくする。
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   運転台から見た、トンネル側の風景。速度計が動いている様相は迫力満点です。

 この宇都井駅は、昭和50年の三江線全線開通に伴って出来た駅です。高架上にある最も新しい無人の駅舎で、6階建てのビルに相当する高さがあるため、「天空の駅」との愛称を持っております。
 しかし、エレベーターやエスカレーター等の昇降機器はありません。

 三江線の列車は、江の川の流れを遡る形で、島根と広島両県の県境へと近付いて行きます。
 そんな中、もう一つのクライマックスを迎えようとしています・・・。

 続きは、(その6)で・・・。

 

2017年9月14日 (木)

山陰ドタバタ旅行記(その4)

【二日目(三江線編[その②])】
 江津駅を発った2両編成の気動車は、江の川を遡って行く形で三次方面へと南下。

 緩やかな流れのまま、一気に山里へ・・・。

 友人との会話で「私たちが乗っている列車が、マイカーに追い越された上に、追い抜かれた。」と言っていたの事から、江津と三次との間を走る生活路線は、多くの鉄道ファンや観光客が乗っているために自分自身としては、「これは最早、観光列車だ!。」と割り切りました。

 小さな車両の中は、都会の通勤電車並みの大混雑。座席に座ってのんびりと景色を見る人や眠り込んでいる人。疲れを知る事も無いまま、扉や運転室の窓際に立って外の景色を見ている人。外の景色等を撮影若しくは録音録画等で忙しく歩き回っている人・・・。等々、個人個人の行動も様々でした。
 私は、車内や外の風景を撮影したり、車内放送や列車音を録画する等で歩き廻る事も多々ありました。

Photo         江の川河口と大工場を望む風景。向こうには日本海が広がります。

Dsc_0019_1504938732242 下流とは言え、低い山裾が住宅にまで押し寄せて来る程の地にある集落。(江津市にて)

Photo_4   様々な昔話や伝説のヒーローやヒロインが描かれてある、田津駅構内の面白い表札。
Photo_8         稲刈り真っ最中の田園風景(田津~石見川越間にて)

Photo_5    三江線沿線最大の自治体である、川本町のとある風景。(石見川本~木路原間)

Photo_6         粕淵駅にある、木製のキロポスト。起点の江津からは48キロ。 

Dsc_0004_1504944540920      山里ムードが漂う、浜原駅の風景。こちらでは、折り返し便が多数発着する。

Photo_2          江の川中~上流の風景。その割には緩やかですね。

Photo_9      江の川の水面。木々の緑と水の青さで身も心も癒されて、澄み切ります。   

Dsc_0049_1504949592239_7     出入口扉周辺は、ワンマン運転対応のためにミラーが取り付けられています。

Dsc_0008_1504949598932 軽快気動車キハ120系の製造番号と、その製造会社である新潟鉄工(現・新潟トランシス)の表札。

 上記の様に、写真撮影を収める事を忘れてしまいましたが、沿線の各所では地域の人達による挨拶や送迎、三江線の利用に対する感謝のお礼と言う意味合いでの手振り、鉄道マニアによる写真撮影の姿がチラホラと見えました。
 
 それだけ、長きにわたるこの路線に対する愛着と惜別の念が強いと言う事ですね。

 三江線の小さな車両は、更に三次方向へ南下して、最大のクライマックスを迎える事となります!
 
 その続きは、(その5)へ。

 お楽しみにね!

2017年9月13日 (水)

山陰ドタバタ旅行記(その3)

【二日目(三江線編[その①])】
 山里の石見銀山から、山を下る格好で大田市駅へと戻りました。
 いよいよ、山陰旅行の最大の目的である三江線へ乗車のため、起点の江津へと向かう形で、特急スーパーまつかぜに乗車しました。
 嬉しさと不安で、益々鼓動が鳴って行ったのです。
 大田市駅~江津駅間の乗車は僅か20分弱ではありましたが、里山の田園地帯と里海の沿岸集落、風力発電所が立ち並ぶ海岸、大規模工場、そして地方都市の街並みと景色が目まぐるしく変わった程に、多様多彩でした。
 石見銀山での散策等の疲れから来す、眠気がワクワク感に変わってしまったために殆ど眠れませんでした。
 Photo_6 初秋の青い海と青い空の下で、石州瓦の家並みの沿岸集落である馬路地区を走る、山陰本線の沿線風景。空気も澄み切っているし、僅かな隙間から琴ケ浜海水浴場が見えて美しいです。(山陰本線;仁万~馬路間)

 上記の様な景色を楽しんでいるうちに、列車は江の川河口の鉄橋を渡り、江津駅へ到着。そちらでは、僅か2両編成の特急車両から多くの人達が降りました。
 それだけ、三江線へ記念乗車を希望する乗客が多いと言う事でしょう。

 到着してから直ぐに、三江線ホーム(江津駅の3番線ホーム)で列車待ちのために列を並んではいたものの、友人が「お別れバブルに沸く三江線は、いつも激しく混んでいる。」と言っていた割には、思った程混んではいませんでした。
 しかし、友人が江津駅の構内から出て、三江線の列車の車内で飲むための飲み物を買っている間に、益田方向や三次方向から来た列車が到着した時には、状況が一変。多くの人達がドッと降りて来て、三江線ホームは大都会のラッシュアワー並みの大混雑となっちゃいました。
 それだけ、鉄道愛好家や沿線地域住民が長年にわたって三江線に深い愛着を感じ、来年3月の廃止を惜しんでいると言う証左なのですね。
 今までは、一赤字ローカル路線としてひっそりとしていただけに尚更ね・・・・。

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Dsc_0007_1504938737508       上段の青は三江線、下段の赤は山陰本線をそれぞれ表しています。

Dsc_0004_1504938736498 江津駅を出発する、三江線の列車は一日五本。そのうち、江津~三次間を直通運転するものは一日たったの二本。

Dsc_0006_1504938733575 江津駅の三江線ホームから、東方向を望む。鉄路は江の川に沿いながら、三次へと続く・・。         

Dsc_0014_1504938731660_2 石見川本始発の多くのお客さん達を乗せた可愛い気動車が、江津駅のホームへと滑り込んでいます。

Dsc_0016_1504938730698               只今、三次へ行くために充電の真っ最中です。終着時刻は、夜七時ごろ。

 2両編成気動車の扉が開くと、「早く列車が来て、三江線に乗りたい。」と待ち焦がれた思いが弾けたかの如く、多くの人達がセミクロスシートの席に座ろうとして、この室内へと入って行きました。
 可愛らしい車両の中は、大混雑でしゃべり声や居眠りなどで大賑わい。そして、乗車の目的は、廃止に伴う体験乗車、沿線風景や車両の撮影、気動車走行音若しくは車内放送の録音、日常生活の足等、人によって様々・・・。
 こんな鉄道愛好家や旅行愛好家達の夢と希望、沿線地域住民達の普段の生活の匂いを乗せて、15時15分に江津駅を出発。
 ついに「『三江線鉄道旅』と言う、悠久のドラマ」が始まりました。
 これからは時間と空間を超越しする形で、山紫水明の人里風景をのんびりと走る事となります。

   次回の三江線編[その②]へと、話は続く・・・。

2017年9月12日 (火)

山陰ドタバタ旅行記(その2)

【二日目(石見銀山編)】

 午前九時半頃、最大の目的地である三江線に次ぐ石見銀山遺跡のある、大田市駅に到着。
 そこからは、石見交通の路線バスでそちらを目指す事になりました。
 普段なら細やかな人波の島根県中部の地方小都市である大田市。土曜日とあって、観光客で賑わっておりました。
 そのバスに乗ると、生活の匂いが漂っており、この様な車内での名所名跡観光案内は、非常に楽しかったです。過疎や少子高齢化による人口減少とマイカーの普及による利用者減少に慢性的に悩まされている、地方のバス会社の生き残りに掛ける工夫と努力の知恵と汗と涙、沿線地域住民の温かい人情が私の心へと深く打つ事が出来たからです。
  この様な魅力が、地方路線バス会社の魅力なのでしょう。ついつい、応援したくなりますよね・・。
  地域沿線の生活臭と温かい人情、観光客のときめきとが上手く融合した路線バスは、石見銀山エリアへと到着。
 そこから私達は、電動付自転車を借りて何処へ行こうかと考えながら、石見銀山遺跡を周遊し始めました。

 石見銀山遺跡は、大きく二つのエリアに分かれます。自然環境が豊かで神秘的な銀山地区、美しい石州瓦屋根に彩られた特徴の建物が続く街並み地区となります。
 石見銀山が世界文化遺産として認められたのが2007年。今年はその10周年として、祝福行事が次々と行われているのです。
 これが世界文化遺産として認められた主な理由として、当時の日本や世界の政治経済に大きな影響を与えた程の規模で以てして大繁栄していただけではなく、その遺構が自然と上手く調和出来ていたからです。正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」となっております。
 石見銀山は戦国時代~昭和戦前期まで開山。その全盛期(16~17世紀頃)には、周辺の街には20万人も住んでおり、当時の全世界の銀鉱石産出量に占める割合が約3分の1だったのです。当然、豊臣政権及び徳川幕府の財政基盤の一角を成し、大航海時代のアジアとヨーロッパとの交易にも大きく貢献した程だったのです。

Dsc_0022_1504928544742 Dsc_0030_1504928555501 鉱山遺跡が世界文化遺産として認められたのは、東アジア地域では初めて。その認定から2017年現在においては10年目。年月が経つのは、早いものですね。

 私達は、最初に銀山エリアを周遊する事にしました。電動自転車で以てしても、かなりの坂道で中年の私達の身体へ持ち堪えてしまいましたが、素朴な民家や屋敷・寺社と美しい自然に癒されました。こんな中、銀山地区最大の間歩である龍源寺間歩へと到着。

Dsc_0013_1504928542467_2          里山の緑と石州瓦屋根の赤く輝く民家は、いつ見ても美しい。

Dsc_0012_1504928537628_5 大森代官所跡~武家・町家~銀山の各エリアを結ぶ、森と渓谷からの自然の恵みを受けた美しい道。森林浴には持って来いですよね。
Dsc_0010_1504928537326_2       龍源寺間歩へと繋ぐ道の途中には、小さい間歩が何か所もあります。

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Dsc_0040_2 一般通常公開されているものとしては、石見銀山遺跡最大の坑道「龍源寺間歩」の石碑と入り口。この先には、幻想の世界が広がります。

 龍源寺間歩の主要坑道の中へ入ると、そこは別世界。
 9月の長月とは言え、外の世界はまだまだ暑い頃。行動の中は非常に涼しくて、柔和な空気が漂っていました。同時に、当時の政治家達や経営者、鉱夫達の夢と希望、そして厳しい自然と劣悪な環境との闘いから来す、知恵と血と汗、涙、そして努力と苦労の結晶が私の身と心へと染みて来ました。
 この様な説明文書と絵図が描かれた掲示板が、出口周辺にありました。
 行動の出口に近づくと、夢と希望の光を浴びた感覚さえもしました。それ程に明るかったのです。       Dsc_0044_2         龍源寺間歩の主要坑道。
         Dsc_0057_3         龍源寺間歩の主要坑道の側面には、無数の間歩があります。

 龍源寺間歩を出発してからは、もう一つのメインスポットで多くの歴史的建造物がひしめき合っている、街並みエリアへと向かいました。
 途中、左毘売山神社の入り口(境内へは入れなかったが・・・)や清水谷製錬所跡へと立ち寄り、昔日の石見銀山とその周辺と鉱山関係者達の栄華を想像しながらの散策となりました。
 行く時の上り坂とは違って、下り坂一辺倒だったので風に当たりながらの森林浴と日光浴とを同時に楽しむ事が出来たのです。

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Dsc_0008_4 佐毘売山神社への神門と参道。その先には、坑道とは違った神秘の世界が広がっているのでしょう。

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Dsc_0015_1504928547680_2 長きにわたって稼働していた石見銀山にとっては最後の栄光の象徴。清水谷製錬所跡地。明治時代に、当時の最先端技術による設備で、更なる品質の向上と生産効率の上昇を目指していました。

銀山地区から街並み地区へ向かっている途中、銀山附役人であった旧坂本家の居宅屋敷を利用した、渡辺家住宅へも立ち寄りました。
 こちらは、江戸時代後期に建てられた武家屋敷の建物で、現在では一般公開されています。その建物自体の撮影していないために、写真はありませんのでごめんなさい。その代わり、説明書と平面図を下記へ表示します。Photo_10

Photo_11

 水と緑に溢れた銀山エリアと別れて自転車が街並みエリアに入ると、歴史の薫りと重厚感、そして都会とは違った古くからの田舎の人情味と気さくさを感じるにいられませんでした。そちらには様々な歴史建造物や有料の博物館、お土産屋さんや食事処があります。更なる歴史とこれからの地域社会の在り方についての勉強、ショッピング、腹ごしらえ等、限られた時間の中で如何にして楽しく学び、楽しく遊び、美味しく食す事が出来るのかを考えたり思ったりしながら、大森代官所跡へと進めました。
 その途中で私たちが途中で立ち寄った、お菓子処の有馬光栄堂とドイツ風のパン屋さんであるベッカライ・コンディドライ ヒダカはお勧めですよ。特に後者の方は、全般的には塩味が利いてます。外はしっかり、中はふんわりとしていて美味しかったです。
 そちらに関する更なる詳しい事や店からの情報については、Facebookページを閲覧する事も可能です

Dsc_0032_1504928528116_3   Dsc_0040_1504928554788_2          石見銀山大森地区のシックな街並み。いつ見ても飽きない。
Dsc_0041_1504928537866_3 懐かしさを感じる、お菓子処の有馬光栄堂。そちらのお菓子は、お土産品としても人気で、鉱山関係者達のおやつとして長年、愛され続けて来ました。

Photo_2       国産の黒糖をふんだんに使ったげたのは。お茶請けにも最適ですよ!
      Photo_3        大豆も黒糖もすべて国産の原材料。ミネラルがたっぷりで栄養満点です。

 石見銀山の街並み地区の面白さと良さは、間歩と呼ばれる坑道や様々な歴史建造物、そして山紫水明に満ち溢れた自然だけではありません。
 様々な博物館へもろくに入れず、十分な歴史の勉強も出来ずにいて後悔しましたが、外の景観も無料で入れる建物の展示物や室内も面白いものだらけで、訪れた私達の心を躍らせたり、興味や好奇心を引き寄せて来るものばかりでした!

Dsc_0050_1504928555924       建物全体の写真は写せませんでしたが、木の温もりと歴史観は満載です。

Dsc_0049_1504928538561_2 きめ細やかかつ機能的な造りの革張りシートの椅子は、重厚感と華麗さで満ち溢れています。今の技術で以てしてもとても真似が出来ない程の、美しさと頑丈さを兼ね備えています。Dsc_0046_1504928537084_2 代官所ゾーンの高台にある、代官所の祈願寺であった観世音寺からの石見銀山街並みエリアの全景。石州瓦の屋根が煌びやかに輝いて、う~ん美しい。

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Dsc_0035_1504928547282 白壁が美しい、熊谷家住宅。重要文化財に指定されています。入館する事が出来なかったが・・・。

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Photo_2 石見銀山の入り口に堂々と聳える、代官所跡。威風堂々とした重厚な風格です。館内は、石見銀山資料館となっていて、石見銀山の歴史が詳細に紹介されています。そちらへも入館出来ず・・・。

 昼食は、大森代官所跡前バス停そばのお食事処 おおもりで割子そばを食し、食べた事が無い出雲そばの味を堪能しました。普段食べている信州そばや江戸風のそばとは違い、麺そのものが硬くて短く、そば本来の甘さと実の硬さを体感出来ました。

 昼一時の大田市駅行きの路線バスで、山陰旅行最大の目的たる「三江線への完全乗車」を果たすため、再び大田市へと戻りました。外の景色は殆ど見るゆとりも無く、睡眠真っ只中の移動となりましたとさ・・・。

 次への続きは、(その3)にて。

2017年9月11日 (月)

山陰ドタバタ旅行記(その1)

 九月八日(金)~一〇日(日)に掛けて、車内での一泊を含む二泊三日で高校時代からの付き合いのある友人との合計二人で、山陰旅行をしました。

【旅行の実施までの道程・・・】
 その切っ掛けは、今年の正月の初詣ドライブの時の友人同士の雑談で、友人が「来年の3月で以てして、三江線が廃止される。行きたい方がおれば、一緒に行こうぜ。もし、行くのであれば早いうちに。」との一言です。その頃は、私が右膝蓋靱帯断裂の後遺症で入院しており、体調も良くなかった事から、当時はそちらへの旅行は諦めていました。
 しかし、病院から退院して後遺症が残っているにしろ、痛みの頻度が少なくなりかつ右足の動きが回復して行くに連れて、私自身は「三江線へ是非とも行きたい。早く乗って、撮影をしまくりたい。その序に、世界遺産の石見銀山や温泉津温泉か広島周辺のどちらかへも行きたいし、泊まりたい。」との気持ちが日に日に高まりました。
 こうして、長い月日を掛けて、山陰方面への旅行行程の計画や構想が始まり、実行に移しました。当初は「北陸を夜出発して、三次又は江津の駅に翌日の早朝に車を置いてから、三江線を往復。帰宅時に観光をする。」と、「北陸を夜出発して、三次又は江津に車を置いてから、三江線全線片道乗車組とマイカー輸送組(三江線乗車を拒否する人達)とに分かれてから、再び合流。山陰又は山陽エリアの宿泊観光を兼ねながら、北陸方面へ帰宅する。」と言う案を考えていたのです。
 しかし、予算や体力、仕事の勤務スケジュール等々様々な理由から、以上の様な計画が頓挫して、三江線乗車そのものを諦めた事さえも・・・。
 ゴールデンウィークが過ぎてから暫くすると、友人が「JR線使いたい放題の『山陰フリーパス』と言うものがある。それを使って三江線乗車旅行をしようじゃないか!。ただし、鳥取駅まではマイカーで行く事になるのだが・・・。」と言ってくれたので、諦めていた三江線旅行への熱き願望が甦ったのです。当初は三江線乗車のみが目的だったのが、お互いに計画を進めて行くうちに石見銀山への周遊をも決めちゃいました。
 それと同時進行して行く格好で、日頃のリハビリや療養だけではなく、四苦八苦しながらでも、以上の様な旅行への思いも手伝う形で右膝蓋靱帯断裂後遺症の症状も良くなって行きました。右膝の滑液が溜まって痛くなる時もあるのにも係らず、マシンジムでの簡単なランニングや筋力運動が現在では出来る程に・・・。

【一日目】
 
高齢者施設へのリハビリマッサージ及びその事務処理を終えて簡単な夕食を摂取した後、先ずは私のマイカーで、友人が住んでいる敦賀へと向かいました。
 加賀市までは一般道、そこから先は高速道路でした。金沢市内~野々市周辺は混雑が酷く、信号停車は頻繁で右膝痛や仕事疲れ、旅路のワクワクとした興奮との格闘でした。高速道路に入ると、一般道での鬱憤を解消出来たのは良かったが、今度はカーブや高速運転とDsc_0002_1504899700101_8車高の高さから来す不安定さとの闘いへと変わったのです。
 この様な状況の中で、敦賀に到着。
 友人と食堂で夕食を摂って、友人宅で友人夫婦との雑談等で休憩を取り、深夜零時に敦賀を出発。「高速と下道との組み合わせで鳥取駅へ行くだろう。」と思っていたら、全線下道を通る形となり、友人のマイカーで鳥取駅へ行く事となりました。
 途中、小浜~舞鶴~福知山~養父~湯村温泉の深夜の街並みも見れて良かったが、外は寒いし途中では激しい霧がかかるし、厳しいカーブや起伏の激しい道も多い。況してや京都と兵庫両府県の北部と鳥取県との間には高速道路も無く、暴走車だらけ。各所にあるキロ数掲示板や気温を見たりした事等で、期待と不安とが入り乱れてしまった。事実、兵庫県のハチ北スキー場周辺~湯村温泉の高原地帯を走行している時に、温度計を見ていたら摂氏10度台後半しかなくてびっくり仰天。
 そうこうしながら、車は山陰方面へとかなりの速度で走り、翌朝の未明に鳥取市へ到着。バイパス近くのコンビニで長時間もの休憩をするに至りました。

【二日目(鳥取~大田市編)】

   早朝コンビニでの朝食打ち合わせ後、駅前の安くて便利な駐車場を探しながら鳥取駅へと辿り着きました。
 そこからの旅は、マイカーから鉄道へと変わります。

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    鳥取の駅舎は、金沢駅とほぼ同じ造りの高架駅。中身は同じだが、非電化でコンパクト。

Dsc_0010 兵庫県の浜坂へと向かう、かわいらしい軽快気動車。キハ125系。中身は豪華で力強く走る、俊足の持ち主。

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Dsc_0021_6     石見銀山のある島根県中部の大田市へと特急「スーパーまつかぜ」に乗車。

Dsc_0020_2      キハ187系の側面には、鳥取県の県花二十世紀なしが描かれています。

車窓からは、湖山池や中国山地の主峰たる伯耆大山、中ノ海や宍道湖の雄大な自然風景と田園風景を中心に、米子や松江、出雲市と言った主要都市の風景や北陸と違った気動車を中心とした色とりどりの車両鑑賞も楽しめました。
 しかし、長時間ものドライビングで私も友人も、疲労困憊で殆ど睡眠・・・。

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 そして、我々を載せた列車は、大田市駅へと到着しました

 続きは、その2で!
 

 

2016年3月 7日 (月)

「北陸新幹線開業からもうすぐ一年、北海道新幹線開業間近」について思う・・・。

 今年の鉄道関係での大きな話題は、北陸新幹線の開業から一年と北海道新幹線の3月26日開業である。

 両者とも地元のマスコミや雑誌、関連地域の鉄道会社や経済界や財界、旅行会社、ホテル等が連日の様に喜んでいる。その一方では、寝台列車・定期夜行列車いや急行列車の廃止、並行在来線の三セク化とそちらを走っている優等列車の廃止、沿線地域社会への負担増加、更なる一極集中、運行や保全の維持費の増加、地方の過疎化に対する更なる拍車等深刻で悲しい問題も多い。

 北陸新幹線の方は、東京を中心とした首都圏と北陸西部(特に富山石川の両県)が非常に身近になり、観光客が増えて信州や飛騨地方との組み合わせた新たな周遊も出来て、多大な経済効果が生まれた。しかしその陰では、昔からの緊密な関係にある関西中京方面との利便性が薄くなってしまった事、小松及び富山両空港の利用者が減少し、特に羽田便が深刻であった事(その分、羽田乗り継ぎによる国内国際両便利用割引が拡大されたが・・・)、金沢の一人勝ち現象が起こってしまった事、新幹線に並行する在来線の3セク化による運賃値上げによる利用客減少による、短距離高速バスの利用客の増加、古くから「金沢市民の台所」として、庶民に愛されてきた近江町市場の観光地化による物価の上昇と各商店の後継者不足にあえぐ中での売り上げ低下とそれに伴う閉店と風紀の乱れと地元客離れ(似たような状況が東山茶屋街と野町広小路のにし茶屋街にでも起こっている。)等と言った新たな問題も生まれた。
 
 北海道新幹線の方では、一日13往復と便数が非常に少ないばかりか東京~新函館北斗間の所要時間が最短でも4時間強。しかも、新函館北斗駅が函館市の中心地から約20キロ前後離れており(金沢~能美市間に相当)、函館空港の場所が中心市街地と一体となっている湯の川温泉近辺にあるために、立地利便性とも新幹線の駅の方が非常に不利である。
 肝心要の北海道の中心大都市である札幌とは繋がれておらず、東海道と山陽とは勿論の事、北陸や東北、上越、九州の各新幹線以上に沿線の人口の密度が低く規模も小さいため、収益や運営面においても非常に不利だ。
 しかも、東京~新函館北斗間の下り最終便と上り始発便の「はやぶさ」(新函館北斗で道央地区以北の道内各都市とを繋ぐ列車と接続が可能)と盛岡・新青森~新函館北斗間の「はやて」(盛岡又は新青森で上野・宇都宮・仙台とを、新青森で大阪・金沢・新潟・秋田方面<以下北陸羽越方面>とをそれぞれ繋ぐ列車と接続が可能)、仙台~新函館北斗間の「はやぶさ」(仙台で首都圏方面とを、又は新青森で北陸羽越方面とをそれぞれ繋ぐ列車と接続が可能)とにそれぞれ接続するべき夜行列車が無くて、利便性も悪いどころか完全に本州及び北海道の主要都市とを円滑かつ快適に結ぶ事が出来ない。北海道新幹線と接続するための夜行列車を設定をすべきで、そうしないと北海道新幹線の運営がやって行けないのは必至だ。更には「台風や暴風雨や暴風雪等の不安定で劣悪な気象状況に左右されてしまい易い。」と言う航空機の欠点を補完する事が出来ない問題点もある。
 航空機との運賃価格競争の面において、全般的には新幹線の利用が安いものの、インターネットの早割や特割、限定割、バースデー割、スカイメイト割等と言った割引サービスの種類の豊富さと全国的いや国際的ネットワークに関しては、航空機の方が優位に立っている。使い勝手や予約の時期やタイミングによっては新幹線よりも航空便の方が格安になってしまう場合もある。
 だから以上の様なため、非常に多くの問題を開業前から抱えてしまっているのだろう。

 そのせいか、北海道新幹線の開業前の賑わいは、北陸新幹線のそれとは比較にならない程、規模は小さくなってしまっている。

 しかし、以上の様な問題で諦めたり、委縮する訳に行かないのは当然の流れだ。
 交通が非常に不便である津軽海峡及び日本海沿岸の松前町や江差町、木古内町等では道央以北にはない文化歴史遺産を、新函館北斗駅周辺の七飯町や北斗市等では自然景勝地である大沼や駒ケ岳、函館市近郊のスキー場やゴルフ場を生かしたリゾート施設を、函館市の明治~昭和時代の文化歴史遺産をそれぞれ生かして行く形で、過疎化に喘ぐ地域社会の経済活性化に繋げようと模索して、それを実行して行こうと画策しているのだ。また、新幹線にとっては非常に致命的な140㌔運行からの脱却を図って行くための方策として、最高速度200㌔が可能な貨物新幹線の開発運行の実行を、北海道新幹線の札幌開業までに目指す動きもあるのだと言う情報もある。しかし、その一方では「在来線専用の青函トンネルを新たにもう一本作って、新幹線の本格的な高速運行を可能なものにして行こう。」や「最高速度時速400キロでの運行可能な技術の開発と営業を実行して行こう。」との声もあるのだ・・・。更には北東北地域との「縄文時代の文化遺産の活用」や「青函地域の連携」というキャッチフレーズで、観光面での連携も進めている。

 共通の問題としては、観光中心主義による一時的な地域経済の活性化に過剰依存してしまう事が無い様、よりよい健全な形で新幹線開業効果の定着化を図ってほしいものだ・・・、と感じて止まない。そう、私には感じているのだ。

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